プロフィール

サイコ
なんの取り得もなく、うかうかと40過ぎまで生きてきてしまい、いろいろな悔いとともに悪あがき的に行政書士、社労士を目指し、昨年、今年と試験を受け見事に不合格(*´д`)=з 現在、行政書士試験リベンジ中。
※この時計の時刻は、閲覧しているパソコンのものであり、必ずしも正確な時間とは限りません
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ペンフォールド・グランジ 2004
 

 

  

  

  
ドメーヌ・ジャン・ルイ・シャーヴ・
エルミタージュ 2004


  

  
2010年12月20日
ここ2ヶ月
  社会保険労務士ブログ  現在  圏外


   士業(弁護士、会計士等)  現在 56位



前回ブログを起こしてから2か月以上あいてしまったのであるが、例によって行政書士試験があったからということもその理由であるが、最もショックであった理由は、先月末の母親の他界である。まずもって、9月上旬ある。癌の転移により母が入院した。入院当初はそれほど深刻な感じを持ってはいなかったのであるが、10月に入るとトイレに立つこともできないようになって、ベッドに寝たきりになってしまった。ただ、意識だけはしっかりしていたので、医者が言うように年内までは余命があるものと、変に楽観していたりもしていた。11月に入り、その意識も虚ろになりがちになってきた。毎日は様子を見に行くことができなかっかのだが、日に日に衰えていくのを見ていて忍びなかった。そんな途中で、行政書士の試験。言い訳にしかならないのだが、社労士試験が終わったのが8月末で、その2週間後に母の再発が発覚している。母の病状を思う不安も当然ながら、母の不在による生活環境の変化は既に始まっていたのである。そんな中で、そうした不安や現状へのストレスを解消するがために、行政書士試験の勉強をしていたつもりになっていただけなのかもしれない。現実から逃避するための手段としての勉強。当日の試験は、時間配分が悪く、一般常識に全く時間を割くことができず、今回もまず不合格であろう。そして、意識なく、眠るだけの日々が1週間ほど続き、11/23勤労感謝の日の夜中に、「血圧が下がっている」ということで親父が病院から呼び出された。その日は、取りあえず何事もなく数時間して親父は家に帰ってきた。そして、次の日も、次の日も、朝に病院に様子を見に行っていたのだが、ついに、心拍が停止した。いつかくるその日は、分かっているとはいえやり切れない思いしかない。そして、もっと元気なときに何かしてあげることがあったのではないか、もっと安心してもらうことができたのではないか、と悔やむことばかりである。ただ今は一言。母さん、ありがとう。




2010年01月01日
謹賀新年
  社会保険労務士ブログ  現在 87位


     士業(弁護士、会計士等)  現在 8位





 ● あけまして おめでとう ● 




今年も良き年となりますように             






2009年12月14日
SOS?
  社会保険労務士ブログ  現在 87位


   士業(弁護士、会計士等)  現在 13位


うーん、まぁ、忙しいといえば忙しかったのであるが、例によって異議申立ての草案をまとめていたわけでもなく、そちらも遅々として進んでいないのである。これでそんなこんなしていると、この昼勤後の代休日には、新しい免許を貰ってしまうことになる。せっかくの休みなのであるが、免許を貰いに講習(30分くらい)を受けければならない不利益をどう償わせるべきか、公安委員会、覚悟しとけ、である。が、実に面倒だなぁ さて、そんなことでブログの更新も遅々として進んでいないのだけれど、ランクは前回より大幅にあがっている。有難いかぎりである。というか他の人はもう少し頑張って下さいよ。まぁ、別段何が忙しいということでもないが、昼勤、夜勤、昼勤の連続で会社に拘束されている時間が長かったということと、まぁ、携帯からブログアップはしないのでということもあるが、もうひとつは、パソコンを買い増したということもある。ついに6年ぶりに新しいパソコンを買ったのである。当然ウィンドウズ7OSである。今までのXPマシーンはメモリが拡張できずにいたので、どれだけADSLが早くても限界であったし、ものすごく動きが遅くなってきていたので、ほんとに限界なのであった。と、な、な、なんと、そしてその一世代前のマシーンがリコール! 電源から火を噴くらしい。ほんとにタイミングよく入れ替えできたわけであるが、取り敢えずさ来年7月までテレビは使えるので、リコールに出した。うーん、そう元祖テレパソであったのだが、時代は地デジになってきているのよね。まぁ、その後はぼちぼち考えるとして、この新パソコンにしたということだけの理由ではないのであるが、ADSLにはまだ接続していない 現在は、暫定的に イー・モバイルで代用している。これでも一世代前に比べると若干早いのであるが、うーん、メールが溜まり放題で、3日前までやっと分別して読むべきものだけは読んだのであるが、またこの2、3日で遅れていくのは目に見えている。だから、貴重な時間を無駄にされることにはムカつくのだ、公安委員会、覚悟しとけ
で、申し訳ないのだが今回は問題作る暇もなかったので、異議申立てを決意するはめになった冤罪違反について書いてみる。違反とされたのは「指定場所一時不停止等」であるが、違反とした取締り警官は白バイ隊の警官1名が、その停止線の対岸で張っていたところをサイコが停止しなかった、ことを「目撃」して摘発に及んだらしいのだが、そこの場所の状況からして、対向車がある場合に確実な目視ができ得るかが非常に不確実にもかかわらず、違反切符を切ったのである。当然に、サイコは否認したらば、調書を作って後日、実証検分となったのであるが、はっきりいってその時点で騙された、というよりない。違反とされた「指定場所一時不停止等」に対する反則金は結果払ってないわけであるし、公安側からの刑事手続きの通知等もなく1年半以上が経過しているわけであるのだから、サイコとしてはやってもいない違反であるから、当然そのデータは消されているものと思い込んでいたのである。甘かった。実証検分の際に検分した警官が言った「後にデータは消される」ということはなかったのである。まず、ここで後々そのような処分を被る可能性があることを、口頭ではなく書面で教示する必要性があったのではないか。文書として知らせているのであれば、こちらも瑕疵があったことを認容する余地もあるのであるが、今回のように当事者は自己に都合よく解釈するのであるから、そこまでを慮って文書による経過の通知等は必須であるのではないか、と思われる。第2に、目撃警官は1人であったわけで、その警官に摘発件数の上乗せ(まぁ、俗に営業マンなんかのノルマみたいなもの)を潜在的に目的としていた恣意はなかったか。ここでもし警官2人であったときは、サイコは泣く泣く違反切符にサインしていたかもしれないのだが、2人であると確実にどちらか1人が証人となるわけで、嵌められた場合でも一般市民たるサイコは泣く泣く取り敢えずそれに応じていただろう。但し、今ここまで学習が進んだ段階であったならば、まず公安にその摘発警官に対する「苦情」を提言して、改善が目にみえるかたちでなされることを訴求したはずである。第3は、以前に書いたように処分後の原状回復訴求ではなくて、多大な損害を被ることが事前にわかっていることでもあるし、行政としても事前に瑕疵を矯正することができれば、時間的にも経費的にも行政経済に資するはずであるところのものを、こうした迂遠な措置でしか対応しようとしない、いわば怠慢のようにも映る現状においてもなお、上意下服の中で「すべきことは特定されている」範囲をマニュアル通りでしかしないこと、だから他にすべきことと映ることをしない杓子定規の中での公務遂行がもたらしている弊害に対して、特には当事者、警官も違反者も即座には思いつけない事態に陥っているのではないか。行政の適正かつ迅速な対応の趣旨からすると、こうした組織的な停滞性は法の欠缺ではなくて法の陥穽にあるようである。まぁ、だから行政書士あたりはその穴を埋めることで糊口を凌ぐことができるのかもしれない。まぁ、兎に角、生きているだけで全ては勉強である。そういうつもりの今回の異議申立ても勉強のひとつなのである。
今後も後日談をよろしく。



2009年03月20日
Money&Violence +α
  社会保険労務士ブログ  現在 61位


   士業(弁護士、会計士等)  現在 4位


えー、今回も出題お休みです



カネと暴力の系譜学

ドイツ語でGewaltが暴力と権力とを意味するのに近い調子と思うと分かりやすいか、ここでの暴力とは、日本語的には権力の方がやはりしっくりくるものなのである。
まぁ、この著者、津田塾大
萱野准教授のことを以前に、上からのナショナリズムと下からのナショナリズムという発想について丸山的と評したのだが、丸山眞男よりも実はカントの叡智界(物自体の世界)を上層として現象界(己が現に見ている世界)を下層とする考え方の方がより近いのではある。カントのこの図式は人間がより道徳的、規範的に高度に成ろうとするために神への接近として礼拝、祈りの行動とともによりその叡智界を模範とする実世界の実現のための絶え間ない運動、行動を個において成す、というものであるが、どうもこの倫理的なる側面を逆透視してドロドロの人間界の実情に則したものにしているのでは、ということである。まぁ、だから、丸山がもともとこのカントの図式からヒントを得て、国家による上からの政治形成と意思ある市民からの多様な下からの政治行動ということを言っているので、強ち間違いでもないのだけれど。ただ、今回「系譜学」を読んでしまうと、その丸山によってかけられたフィルターで再度、しかも簡潔に図式化しているのではと思わせるので、やはり丸山的と言ったほうがいいのかもしれない。兎に角、資本主義社会において、というかここで書かれている国家による暴力の独占、その正当化なるものは社会主義社会、共産主義社会においても同じではあると思うが、要は国家において、法の下の平等の実現という前提からその均衡を乱す者を法に基づいた強制力により処罰、排除することで暴(権)力の独占をなしうる、ということだ。後、「富への権利」、国家成立の基礎である「労働の組織化」というキーワードも出てくるが、簡単にだけ言うと、いづれも封建制において混在していた労働が、資本の運動という新しいシステムの出現によって政治的なものから経済的なものだけに分離独立を果たし、国家にたよらずとも資本によって「組織化」が可能となったのであり、封建制という政治システムの疲弊から領主や貴族が単にブルジョワに看板を書き換えただけで、ブルジョワ革命なるものによって資本主義が発生したわけではない、ということだ。少しつけ加えると、このブルジョワは大東亜戦争後の数年、否定的な意味で使われていた「市民」と同義かと思う。文字通りブルジョワ革命=市民革命だからだ。市民革命によって資本主義が発生したわけではない。
さて、大雑把に見たとおり、国家は暴力を独占したことにより、それによる脅しで国民から税という名目でカネを巻き上げている。資本の方は自前で「労働の組織化」を達成したことで、さらなる運動によって自らを増殖していく。国家が暴力の独占に特化したことによって、資本は国家に対峙したわけではなくそれを後押し、強化する手助けをしたということである。これを思うと、第二次大戦は、国家が暴力の独占を極端に拡張した形で国家どうしのエゴのぶつけ合いであったとも言えるし、大恐慌をエポケーして昨今の世界金融不安は、国家から自由になった資本が「労働の組織化」をグローバルな形で展開して加速度の付きすぎで、というか資本の増殖そのものに企業が付いていけなくて躓いたら、ドミノ式にバタバタと倒れたのだとも言えそうだ。
後、サイコ的に一点付け加えると、現代ではもう一つの新たな暴力が増大しているはずなのである。そう、紛れも無くこうして発信するという行為そのものである。なにも罵詈雑言、暴言だけが暴力なのではない。暴力と言って分かりにくければ権力でもいい、以前に別ブログshyaa-shyaaの
環境知能のすすめでも少し触れているのであるが、権力機構としてのグーグルという東浩紀の警告。やはり資本主義社会だけに限らず、社会主義国家、共産主義国家においても、社会体制によってその規制の緩急が異なりはするが、情報を統制する強制力を有する国家から「メディア」は形式上分離していて、資本が「労働の組織化」を成し得たごとく、資本により「情報の組織化」をも遂げることとなる。この資本を握っているのが国家であれば、それが体制の違いとなるということだ。一点、注意しておくと、これはメディアではないが、最近の米シティの政府管理下という事態は、社会主義的な(公共的といってもいいか)資本主義国家による管理であって、これ自体は社会主義体制ではないのだが、社会主義的ではあるということだ。だから、体制による違いは然程重要ではなく、国家から分離して「情報」を資本によって組織化することで、「メディア」はある権力を有することとなる、ということである。これは「労働の組織化」によって資本は膨張運動するに比して、資本により「情報の組織化」がなされることで新たな暴力、国家が独占しているはずの暴力とは別種の暴力を持つに至る、ということだ。これは大メディアに限らず所謂ネット上のこうしたブログについても同じである。端的な解り易さで例示すればあるタレントのブログ炎上事件などは、そうした匿名性による擬似組織化された暴力とも言えるわけで、ただこれも広義には国家の暴力の独占を犯すものとして「見せしめ」的に処罰されているわけである。しかし、発信者が処罰の対象となったわけではないのだが、発信者に暴力はなかったのか。「暴力的」でなければ、あるいはフィクションという大枠に納まっていれば、自由社会においてはその暴力が処罰されることはないようだ。逆にこれが社会主義、共産主義においては処罰される可能性は十分あるともいえる。ここで「広義」のと断っているのも所謂「狭義」の暴力も終局的には国家の独占対象ではある、ということからだ。
さて、そうした誹謗中傷というソフトだけが暴力というわけではなく、検索エンジンによってその序列的表示選択順位が決定されているところに、前述の東は新たな権(暴)力を見ているということで、結論として締めくくると、リアル社会とバーチャル社会がボーダーレスになってくるとバーチャルな社会による新たな暴力が侵食するリアル社会への影響をどう「処理」したらいいのか、という倫理の問題となるということである。


2009年03月14日
パトリ
  社会保険労務士ブログ  現在 99位


   士業(弁護士、会計士等)  現在10位

えー、またまたちょっとブログさぼってましてほんと申し訳ないです
それでというわけでもないのですが、無理に問題を作らないで今日は書きます。



ナショナリズム
 名著でたどる日本思想入門

浅羽通明
は右っぽいのだけれど、ばりばりの国粋主義者というわけではなくて、至って中道としての言論者であることがここで読める。それとサイコが前から言っているように、どんな愚書においても読むべき(反面教師という意味でも)ものはあり、例えば、ここで何度となく言及している赤木論文ひとつ取っても、これを読まなければ丸山眞男をという大前提なしでの騙りとなってしまう危険に気付かされたことには意味があったからである。という前ふりで、いきなり「ナショナリズム」で気になった点を。民族独立行動隊、前へ!の章で、前近代的な軍国主義、ファシズムを克服して日本を近代化するために、「国民」の創成を記念した(丸山眞男)、とあるのだが、どちらかと言えば、丸山においては、小集団的な政治への「パートタイム参加」であり、「国民」というよりは「市民」を念頭においていた点を読み違えているように思う。ただ後述するが、その当時に一般的にネガティブな意味での「市民」とはブルジョワをさしていたのではあるが、小集団(家、サークル、会社など)という単位を考えると一括りに「国民」とするのには無理がある。また、前近代的庶民を否定しているのではなく、あくまで全体主義に陥いっていく過程としての大正から昭和初期の中での国民に対してであり、丸山においては、江戸末期にあった日本の様式としての「型」にある美学を見ていて、明治維新以後にそのフォルムの崩壊によってもたらされた一連の悲惨として、大東亜戦争時の日本全体主義をとらえ、戦後民主主義においても「逆コース」として、大衆が一機に過熱する政治的態度を懸念さえしていたのであるから。まぁこれは例の赤木論文のネタ本丸山眞男−リベラリストの肖像の読後感でもあるのだけど。
余談はさておき、浅羽に戻って、この人の読書量というかそのインプットされた教養的な物量には圧倒されそうにもなるのだけれど、なぜかそれほど凄いとは思えないのが不思議でもある。まぁ、この人についてはいいとして、ここでふれている愛国心、という概念は
パトリオティズムすなわち郷土愛であって、プチナショなどといった偏狭的、矮小的なものでないことに気付かされた。サイコも混同していたパトリォティズムとナショナリズムなのだが、大体にしてナショナリズムという概念自体が定義しづらいものであるようで、しかも日本においてはやっと1世紀ちょっとたったぐらいの代物なのだ。要するに近代という概念が日本国を意識させたときに初めて出てくるのがナショナリズムということで、浅羽が書いてるように、国に属していることで意識しようがしまいが、多かれ少なかれ国民はナショナリズムを持っている、ということなのだ。だから、そのナショナリズムを意識的に、明示的に恣意させることでファシズムへの流れと繋がるとする恐れ、という心情も逆の意味でのナショナリズムを包含することにもなるわけで、「愛国」問答でくしくも香山リカが対イラク戦を始めたアメリカに対して抱く感情に俄かなナショナリズムを感ずるとするくだりがあるのだが、まさに自らの誤謬を無意識に察知していたのではある。だから、なるべく香山の本は読まないようにしよう まぁそれはともかく、それほどまで定義しづらい概念を外堀から埋めていく作業は、並々ならぬ労力がいることとも思うが、まぁ、サイコ的な取り敢えずの結論としては、ナショナリズムは近代生まれた哲学の亜種である、ということである。強ち間違ってないでしょ しかしまぁ、この本で浅羽が香山のぷちナショナリズムに触れている箇所があるのだけれど、前にサイコが書いたこととほとんど同じような感慨を浅羽も持っているんだ、と思ってちょっと複雑な思いだ しかしながら、浅羽はこの本の定義づけとして、明治、大正、昭和と時代の変遷とともにナショナリズムも変容していることを書籍から抜書きしたガイダンス風のものとしているのであるが、この本でも紹介されていて、他でもちょくちょく聞いていた小熊英二<民主>と<愛国>を、その口車に乗せられて借りてきてしまった。何を後悔しているのかというと、ページ数(966p!)を全く考慮していなかったまま予約してたので、借りる際にその分厚さだけで圧倒されてしまったということなのである。先ほど、定義し辛いナショナリズムを外堀から埋める作業、と評したのだが、それは小熊に対しての賛辞であることと解して欲しい。こちらの本で、先に書いた「市民」とか「愛国」とかの意味あい、ニュアンスがほんの数年の間で変わってしまうので、それを前提として解釈しなければ、その時々において当を得た議論とならない旨が記されている。昭和期の評論にはそうした誤謬が多いようである。まぁ、兎に角、先が思いやられる



2009年02月15日
先読み!
  社会保険労務士ブログ  現在 81位


   士業(弁護士、会計士等)  現在 5位


えー、2月も半ばになって初アップです いやー、書くことが無かったわけではないのですが、一応問題とかを作るのが大変で、で、今日は問題はアップしないのですが まぁ、11000アクセスを超えることもできまして、ひとえに皆様のお陰と感謝しております。

さて、今日はそういうことで、ちょっと違う意味で問題提起を。

何を焦っているか、というとメディアが流れてしまうと(要はテレビ見ちゃうと)どうしても後出観になってしまって、いらん見た感想になってしまうからだ。ということで、ちょっとメディア批判みたいなのをブッてみよう。ある番組に、カッチャンやミヤケ先生などがパネラーとして激論を超える感情至上主義の怒声を交わす面白いものがある。大抵は内輪揉めみたいなものなのであるが、多分今日は、ゲストが最左翼と言ってもいい人なので、その両側の立場で言っても議論がまずかみ合わないこと間違いなし。以下ゲストVSパネラーをそれぞれG、Pとする。まず御題は、オキナワの真実。まずだれがこの題目をつけたのかわからないけれど、司会進行役の坊氏に「だれも書けなかった年金の真実」なる著書があるのだが、ジャーナリストはたまにこの「真実」ということを強調したがるクセがあるのではないだろうか。当然、取材したもので意図的に隠されていたものを暴く、世に知らしめるのがジャーナリストの使命なのであるが、大マスコミとなると、知らしめるためのシステムが出来上がっているので、どうしても構成という作業を介するときに、実際上からのズレを生じてしまう。いや、大マスコミに限らず、もっと卑小な例で、普段一般人の間で交わされるコミュニケーションでさえも実際相手の意思が100%伝わることのほうが稀、というか不可能に近いのではないだろうか。ここで、すでに一つの答えを出しているのであるが、要は程度問題。おしなべて全て程度、度合いだけ、ある哲学者の言うところの強度のみである。さて、多分大荒れとなるのを予想(俺は馬券師か) して、それぞれを解説する意味で擁護してみたい。まず怒声チームPは、Gが提出する証拠について、裁判上で敗訴した案件であればそこを突いてくる、所謂一事不再理を楯に証拠の信憑性を否定してくるだろう。それにGがいらだって沖縄戦時の日本軍の蛮行を、感情的に口する段には、Pは議論の核を踏み外されて「英霊たちを愚弄するとはけしからん」という、もう一方の感情論に入ってしまう、ことがみえみえである。ここにも程度、が存在することはお分かりだろうか。日本軍は一人ではない。高貴な軍人もいれば、愚連隊もいるわけで、戦争という異常状態で、パニックの中で、なされた行為の善悪など実際に問えるのであろうか。この平和時においてさえも、パニックに陥る人は数知れない。ただ、このPの一部の悪軍人の蛮行をもって英霊たちを愚弄するな、という感情論にはもともと矛盾がある。異常状態、極限状況下の人の心理などには到底及ばないであろうからだ。稀にイラク戦争を取材した現役ジャーナリストもいるだろうが、それ以外はその極限下での判断が出来たか出来ないかを経験していないのであるから、蛮行を咎められなくとも是とすることは、やむを得ずとはできないだろう。ここで、GにおいてもPの孕む矛盾自体からも分かるように、一部をもって断罪する根拠がもともとないのである。それでは何故、怒号の中へ敢えて入っていくのか。ここも程度問題なのだが、誰かは言わなくてはならない、からだ。要するに、あるきっかけでそれにコミットしてしまったことで、イデオローグにならざるを得なくなることがある。ここでGが左翼かどうかは、多分左翼ではないだろうが、あまり意味が無い。右翼の街宣を例に挙げるまでも無く、立場、スタンスが状況的に出来上がっているのであり、一人者としてその惨事を追及するしかないからである。
さてそうした不毛の論議を見る側はどうなのだろうか。ものの数分で「真実」なるものを知りえるのであろうか。要するに、これも何かのきっかけにしか過ぎない。ここにも深く捉えるのか、浅く聞き流すかの程度がある。そう、見る側にもスタンスがあって、捉え方は千差万別となるのである。ただ平民であるから、極端にどちらかなどということもないだろうが、ある意味自分のスタンスを自覚することとなるかもしれない。ただその自覚に囚われるがために自由度を奪われることは、表明者ではない情報の受け手にとっては損である。まず先入観に捉われず、そして疑問を呈し、ある「程度」を納得、理解するのが精神の健康にもいいことだろう。腹八分と同じで、どんな事柄も割り切れればすっきりするのだが、割り切れないものばかりが残っていくのだから、心八分で寛容するのが一番かと。だからPが異常だとかGが異常だとかのレベルで終わるのではなく、それぞれのスタンスと程度を、各々の許容の範囲で理解することがまずもってこの番組を見るに値するスタンスとなろう。
あー疲れた(*´д`)=з


2009年01月01日
謹賀新年
  社会保険労務士ブログ  現在 74位


     士業(弁護士、会計士等)  現在 6位





 ● あけまして おめでとう ● 




今年も良き年となりますように             






2008年12月24日
メリークリスマス♪
  社会保険労務士ブログ  現在 83位


   士業(弁護士、会計士等)  現在 3位




★Merry Christmas★



明日も良き日となりますように             






2008年09月18日
80後
  行政書士ブログ  現在 75位


   士業(弁護士、会計士等)  現在8位

思想地図(vol.1)の続きを。これは地図、というタイトルを付しているのだけれど、東等が思考しているのは、日本発の2010年における思想発信ということで、どちらかといえば計画書、のほうが意図的にはあっているのだが、ナショナリズムを近隣アジア諸国のサブカル事情から紐解こうとする試みというのは、ジオグラフィカルな感じもする、まさに地図の発想である。まぁ、そのズラシというのもなんとなく意図的でもあるけれど、ちょっとだけ、ほー、と思ったのが、ここに寄稿している呉詠梅(ごばいえい)さんの論文「中国における日本のサブカルチャーとジェンダー」。クィア的なものはちょっとも出てないから、タイトルのつけ間違いのような気がするのだけれど、中国でいわゆる新中間層というプチブル(小資)の家庭で育った若者の現状を対面アンケートしたものをまとめているのだけれど、この層は極めてエリート指向が高くて、彼/女等もほとんど大学生なのだけれど、中学高校あたりで消費していたサブカルが、シティーハンターとかのマンガ、東京ラブストーリーを始めとするトレンディードラマ(中国では日劇という)、音楽については書いてないが、面接にきた若者がMDウォークマンを聴きながら部屋に入ってきた、という文章から察しても、あるていどJ−POPも聴いているとは思う、例えば、GLAYとか。まぁ、歴史認識的に嫌日であったりするはずなのが、実は文化消費の面では日本がここ10〜20年に大衆が消費していたものを輸入して受け入れられている、ということだ。ただ、それでタイムラグはあるのだけれど、日本における韓流のような現象が「80後」(バーリンホー)世代を中心に起きていると言うことだ。この背景として、中国の一人っ子政策と、急激な経済的変動でインフレではないが、とりまく社会環境、教育環境が日々劇的に進化しているということがあるらしい。そうした中で彼/女等は、日劇を現実のこととは受け止めてはいなけれども、ライフスタイルのインデックスとして実生活に取り入れ、消費しているということらしい。まぁ、日本をアイテムにする、というのは一部分ではあるのだろうが、伝播の仕方として、例えば、日本だと東京発で日本全国に広がるような環境を、中国だと香港発で中国全土の新中間層に広がるというようにイメージしているのだが。これは、ネットの発達とテレビメディアの多様化が中国のほうが日本よりも先鋭化しているからだと思うのだけれど。ここで期待の一端として、彼/女等が実際に上部の地位につけば、と思ってしまうのだが、政治的な意識が低いサンプルなのか、実際そうなのかわからないけれども、中国もある意味新富裕層の子女たちは政治離れしているように見える。まぁ、つっこんで書くのもくたびれるので止めときますが、サブカルはすでにつねに国境を越えるものであり、実際あらゆるかたちで越境伝播していて、ただ、近しいというだけで、アジア諸国それぞれの国においては多様なかたちで消費のされかたをしているということである。故に、ナショナリズムにおいても温度差はあるが、ひとつの共感性としてサブカルが基底的な役割を担っているのでは、ということである。






2008年09月15日
グゥーマニズム千元
  行政書士ブログ  現在 59位


   士業(弁護士、会計士等)  現在10位


思想地図(vol.1)

 これは続きものになるようで創刊1冊目の複題は「日本」。最初の章は、創刊記念シンポジウムとして共同討議をしている。議題は「国家・暴力・ナショナリズム」で、東京工業大学世界文明センターで08年01月22日に行われている。
 まず
ルソーの「社会契約論」あたりから一般意思という概念をひいてきて、これに「国民なきナショナリズム」(白井聡)を関連づけする派と「方法としてのナショナリズム」(中島岳志) とで論を進めていくという流れで、この「国民なきN」と「方法としてのN」(こちらを具体的な要件を入れた論議、具現派とする)は、メンバーシップ(誰を選ぶか選ばないか)の思考で対立するのだけれど、ナショナリズムを新しい視点で捉えるには、メンバーシップを離れた抽象的な、まさに「国民なきN」(こちらを抽象的な要件を入れた論議、抽象派とする)を思考してみる、ということらしい。この本の「創刊に寄せて」というはし書きには、「抽象的思考」の可能性、を既に上げているのであるが、具現派とした中島氏が具体的というわけではなくて、拠る論理の展開は歴史的な意味も含めて、今までのナショナリズムの枠に戻ってしまう、まさに危険性を含んでいて一歩も新しい展開とならないことを、抽象(中傷)派とした東浩紀が批判的に捉えているということだ。この中島氏はリンクで参照されたように、小林よしのりとの壮絶な論争の渦中にある人でもある。この討議は5人のメンバーで行われているのだが、残りのメンバーは北田暁大、つい最近に雨宮との対談本「生きづらさ」について を出している萱野稔人である。取り敢えず、そうした背景からみても中々ユニークなメンバーで構成されていて面白いのだけれど、難解にも思えるこの本の欠点は、学者の表現にも限界があるということかもしれない。まぁ、それはエポケーするとして、次以降も気になったところを書いてみたい。








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