2012年02月08日
「俄」 読ませどころ 御用盗 西宮 十文字屋で相宿
前回は嵐で船が出ず御用盗一味も船待ちでイラついている件でしたが今回は彼らが投宿する十文字屋へ万吉が探りを入れるため、彼らと相部屋になる場面です。
以下、司馬遼太郎「俄」より
十文字屋の番頭与平は、訪ねてきた万吉を自分の部屋にひき入れた。
「えらいこったす」与平は、さすがに顔を土色にさせている。
「二階の客十人は、どうも臭うござります」「どう、くさい」
「さあ」そこがむずかしいところだ。
においは目に見えないからである。
が、こういう旅籠の番頭のかんというのは信ずべきであろう。
「宿帳には、どうなっている」「へい、これで」と、番頭は帳面をみせた。
石州浜田藩武田専十郎という名前が筆頭で、同藩士としてあと九人の名前が列記されている。
旅行目的は剣術詮議(研究)のため、ということであった。
「石州言葉かえ?」
「いや、石州というところはご存じのようになまりのすくないところで、関東のようでもあり上方のようでもあり、これという特徴もございませぬ。でございますから、生国をお偽(いつわ)りなさるお客様は、よくこの石州(島根県石見地方)というのをお使いになります」
「ほう、石州とはそんな国か」
「へい、でございますから、この石州とここでお書きになっているのがかえって怪しいわけで」「なるほど」さすがは旅籠の番頭だとおもった。
「朱と黒の蛭巻のはでな刀を、そのうちの一人が持っていなかったか」
「さあお腰の物までは」と、番頭は、くびをひねった。
相手がその刀を人目につかぬところに置いているのか、自分の目ではたしかめなかったという。
「金づかいはどうや」
「吝嗇(しぶ)だすな」昨夜は酒ものまず酌婦も抱かず、物堅く寝たという。
その点、大坂で荒かせぎをした御用盗らしくない。
「ただ、けさになって酒だ、といいだしましたので」
「船待ちの憂さをはらすつもりやろ」万吉はそうみた。
尋常すぎるほどのことでそれをもって相手をあやしむわけにはいかない。
「ただ、万一まちがいだったとすれば、これはえらいことに相成ります」
番頭はそれが心配だった。
相手は、石州浜田六万一千石、譜代のなかでも名家として知られた松平家の家来であると名乗っている。
ねじこまれれば、旅籠十文字屋だけでなく万吉のほうもこまるのだ。
「よっしゃ」と、万吉はひざを打ち、決意をこめた顔をあげた。
「わし自身が探索する。わしをこの宿の客にしてあの部屋で相客させてくれんか」
船待ち客で宿は客であふれるはずだから、部屋が相泊まりになるのはごく自然なことで相手はそれを拒否できまいし、それを怪しみもしないであろう。
「せやが、こっちは命がけや」
明石屋万吉があらためて旅装をし、敵城ともいうべき十文字屋に乗りこんできたのは、それから四半刻後である。
「いらっしゃいまし」と、番頭与平が、みずからとび出てきて万吉をむかえた。
むろん芝居である。
万吉は、三度笠を手にもち、浅黄の股引に同色の手甲脚絆に身をかため、それに鉄づくりの長脇差を一本腰に落として、どこからみてもいなせな街道烏の姿である。
「たのむでぇ」と笠を女中に渡し、わらじをぬいで足をあらい、二階へあがろうとした。
番頭与平が、二階の侍たちに聞こえるような大声で、
「いま船待ちのお客様で大混雑しておりますが、二階のお客様と相宿していただくわけには参りませぬか」
「結構、結構」万吉はどんどんあがって行って、その二階の廊下に立った。
番頭の与平がその廊下にすわり、部屋のなかの安岡鳩平らにその相宿の件の諒解をとりつけようとした。
「まあ、よかろう」安岡鳩平は、にがい顔でいった。
船が出ぬとあればこの状態はやむをえぬことであった。
万吉は部屋のすみ、畳二畳を借りた。
その二畳を、女中が屏風(びょうぶ)で仕切ってくれた。
ほどなく、安岡らの一統の酒盛りがはじまった。
女も二三人やってきた。
屏風のかげでは、万吉も手酌で酒をのんでいる。
徳利が五本ある。
そのうち二本は水でその水を万吉は飲んでいた。
この男はどう修行しても酒がのめないたちである。
「うぬはたれだ」酔いがまわってきたころ、山金が首をまわして背後の万吉に問いかけた。
「へい、大坂の渡世人だす」「ばくち打ちか」「左様(さい)で」
「このご時勢に、ばくちを打って暮らしているとは料簡のよくない男だ」
「まったく」万吉は苦笑している。
「どこへ参る」「へい、讃岐の金比羅はんへ」
「なにを祈りにゆく」「家内安全無病息災」
「不心得なやつだ。いま、夷狄(いてき)が軍艦をならべて攻めて来ようというのに、家内安全無病息災とはなにごとだ。攘夷御成就(じょういごじょうじゅ)でも祈るならともかく」
「なにしろ」万吉は笑わずにいった。
「御用盗のはやる物騒な世間でございますさかいな」
そっぽをむきつつ、目のはしで相手の顔色を読むと、多少、表情に動揺があったようであった。
「せやけど、まあ、相宿もなにかの御縁でござります。まあ、いっぱい」
と酒の入ったほうの徳利をつかんで膝をすすめ、山金の杯に注いだ。
以上は「俄」文中の一節でした。
万吉は御用盗一味の正体を見破れるのでしょうか、次回をお待ち下さい。
さて、バナーの方もよければクリックしてください。














以下、司馬遼太郎「俄」より
十文字屋の番頭与平は、訪ねてきた万吉を自分の部屋にひき入れた。
「えらいこったす」与平は、さすがに顔を土色にさせている。
「二階の客十人は、どうも臭うござります」「どう、くさい」
「さあ」そこがむずかしいところだ。
においは目に見えないからである。
が、こういう旅籠の番頭のかんというのは信ずべきであろう。
「宿帳には、どうなっている」「へい、これで」と、番頭は帳面をみせた。
石州浜田藩武田専十郎という名前が筆頭で、同藩士としてあと九人の名前が列記されている。
旅行目的は剣術詮議(研究)のため、ということであった。
「石州言葉かえ?」
「いや、石州というところはご存じのようになまりのすくないところで、関東のようでもあり上方のようでもあり、これという特徴もございませぬ。でございますから、生国をお偽(いつわ)りなさるお客様は、よくこの石州(島根県石見地方)というのをお使いになります」
「ほう、石州とはそんな国か」
「へい、でございますから、この石州とここでお書きになっているのがかえって怪しいわけで」「なるほど」さすがは旅籠の番頭だとおもった。
「朱と黒の蛭巻のはでな刀を、そのうちの一人が持っていなかったか」
「さあお腰の物までは」と、番頭は、くびをひねった。
相手がその刀を人目につかぬところに置いているのか、自分の目ではたしかめなかったという。
「金づかいはどうや」
「吝嗇(しぶ)だすな」昨夜は酒ものまず酌婦も抱かず、物堅く寝たという。
その点、大坂で荒かせぎをした御用盗らしくない。
「ただ、けさになって酒だ、といいだしましたので」
「船待ちの憂さをはらすつもりやろ」万吉はそうみた。
尋常すぎるほどのことでそれをもって相手をあやしむわけにはいかない。
「ただ、万一まちがいだったとすれば、これはえらいことに相成ります」
番頭はそれが心配だった。
相手は、石州浜田六万一千石、譜代のなかでも名家として知られた松平家の家来であると名乗っている。
ねじこまれれば、旅籠十文字屋だけでなく万吉のほうもこまるのだ。
「よっしゃ」と、万吉はひざを打ち、決意をこめた顔をあげた。
「わし自身が探索する。わしをこの宿の客にしてあの部屋で相客させてくれんか」
船待ち客で宿は客であふれるはずだから、部屋が相泊まりになるのはごく自然なことで相手はそれを拒否できまいし、それを怪しみもしないであろう。
「せやが、こっちは命がけや」
明石屋万吉があらためて旅装をし、敵城ともいうべき十文字屋に乗りこんできたのは、それから四半刻後である。
「いらっしゃいまし」と、番頭与平が、みずからとび出てきて万吉をむかえた。
むろん芝居である。
万吉は、三度笠を手にもち、浅黄の股引に同色の手甲脚絆に身をかため、それに鉄づくりの長脇差を一本腰に落として、どこからみてもいなせな街道烏の姿である。
「たのむでぇ」と笠を女中に渡し、わらじをぬいで足をあらい、二階へあがろうとした。
番頭与平が、二階の侍たちに聞こえるような大声で、
「いま船待ちのお客様で大混雑しておりますが、二階のお客様と相宿していただくわけには参りませぬか」
「結構、結構」万吉はどんどんあがって行って、その二階の廊下に立った。
番頭の与平がその廊下にすわり、部屋のなかの安岡鳩平らにその相宿の件の諒解をとりつけようとした。
「まあ、よかろう」安岡鳩平は、にがい顔でいった。
船が出ぬとあればこの状態はやむをえぬことであった。
万吉は部屋のすみ、畳二畳を借りた。
その二畳を、女中が屏風(びょうぶ)で仕切ってくれた。
ほどなく、安岡らの一統の酒盛りがはじまった。
女も二三人やってきた。
屏風のかげでは、万吉も手酌で酒をのんでいる。
徳利が五本ある。
そのうち二本は水でその水を万吉は飲んでいた。
この男はどう修行しても酒がのめないたちである。
「うぬはたれだ」酔いがまわってきたころ、山金が首をまわして背後の万吉に問いかけた。
「へい、大坂の渡世人だす」「ばくち打ちか」「左様(さい)で」
「このご時勢に、ばくちを打って暮らしているとは料簡のよくない男だ」
「まったく」万吉は苦笑している。
「どこへ参る」「へい、讃岐の金比羅はんへ」
「なにを祈りにゆく」「家内安全無病息災」
「不心得なやつだ。いま、夷狄(いてき)が軍艦をならべて攻めて来ようというのに、家内安全無病息災とはなにごとだ。攘夷御成就(じょういごじょうじゅ)でも祈るならともかく」
「なにしろ」万吉は笑わずにいった。
「御用盗のはやる物騒な世間でございますさかいな」
そっぽをむきつつ、目のはしで相手の顔色を読むと、多少、表情に動揺があったようであった。
「せやけど、まあ、相宿もなにかの御縁でござります。まあ、いっぱい」
と酒の入ったほうの徳利をつかんで膝をすすめ、山金の杯に注いだ。
以上は「俄」文中の一節でした。
万吉は御用盗一味の正体を見破れるのでしょうか、次回をお待ち下さい。
さて、バナーの方もよければクリックしてください。



