2009年06月01日
「私の般若心経」

実家には神棚とお仏壇がありました。でもそれに手を合わせる家族は居ませんでした。お墓参りの記憶も殆どありません。ずっと無宗教、無信仰で、いつも目の前の事に追われ、自分の事だけを考えて暮らしていた気がします。
今でも「私の信仰は仏教です。」と答えるには抵抗があります。それでも毎朝、建具屋の義父が作ってくれた仏壇に手を合わせ、般若心経をお唱えします。亡き義母は信仰の厚い人でした。その影響で般若心経を唱える様になりました。でもそれもほんの4年程前からです。最初はただ文字を追うだけで、次に意味を考え、今はやっと、私なりに解釈して思いを込めながら唱える事が出来るようになりました。
自然の理に適った思いは、強く願うと叶うと言われますし、私もそう思います。だから楽しいこと、嬉しいことを考えなくてはいけないのですが、叶わなかった時の失望感を思うと、ついつい最悪の予想をしてその失望感から逃げようとしてしまうのです。
「ああ、だめだ。もっと良いことを考えなきゃあ・・・」と思い直しても、気が付くとまた最悪の事を考えているのです。そうでなければ、「あの人が居なくなれば問題解決できるのに。」という様に、人の不幸を願ってしまっているのです。
これでは事態が好転する事はありえません。それならいっそ頭を空っぽにしていた方が良いと思っても、こちらの方が更に難しいのです。そんな私が考え実践しているのが、般若心経をお唱えする事です。声を出してお唱えしている時は余計な事は考えません。そうかと言って頭を空っぽにしている訳ではないらしく、ふっと良いアイデアが浮かぶ事があったりします。
文を書いたり、本を読んだり、日本語教室の予習をしたり、予定を立てたりする時などには無理ですが、日常の暮らしの中で、私は良く声に出して般若心経をお唱えしています。特に嫌な事があった時は思い出さない様、引きずらない様に、落ち着くまで何かの作業をしながらお唱えします。
「こだわってはいけない。幸せはいつも自分の心が作るのだから。自然の中で自然に許され生かされているというだけで幸せなのだから、いつも全てに感謝しよう。」
私が般若心経をお唱えしながら思い続けている事です。
今はまだ、声に出して般若心経をお唱えしなければ、自分の弱くて恨みがましい心にうち勝つ事が出来ませんが、いつか般若心経をお唱えしなくても、自然に全てが楽しく感じる様になりたいと思うのです。



