2009年01月28日
「贅沢な朝食」
毎朝まだご近所が起き出さない8時前に、私達は犬達と見回りを兼ね、農場内を散歩します。
地球温暖化、オゾン層の破壊で日中はとても外には出られないほど暑いですが、湿気がないので朝はすがすがしく、まだ近所の雑音も響かず、遠くに雄鶏の鬨の声を聞きながら、のんびりした気持ちで歩く事が出来ます。
繋がれた事のない犬達は、後になったり先になったりしながら走り回り、時々は猫の「福」もついてきます。
一日の内で私が一番好きな時間です。
私は四季の中で冬が特に気に入っていますが、朝だけは初夏から晩秋までが最高に幸せな気持ちになれます。それはこの時期は「贅沢な朝食」を味わう事が出来るからです。
初夏の「さくらんぼ」に始まり、「野いちご」「すぐり」、そして今は「木イチゴ」。散歩の終わりはこれらの完熟果実を収穫してそのまま口に放り込むのが私の朝食なのです。
「さくらんぼ」は今年大豊作だったのですが、木が生長して上の方の実は椅子に乗っても手が届かず、指をくわえて見るだけでした。「ああ、美味しそう」と思う実は、翌日必ず小鳥が食べていて、種だけが残っていました。
「野いちご」は干魃の影響で激減し、おまけに私の老眼が進んでなかなか見つける事が出来ませんでした。
「すぐり」は透き通る様に赤く完熟した小さな実が、“ぷっちっ”と口の中で弾ける感触がとても好きです。
そして「木イチゴ」。元々は栽培物でしたが、今では「野生」と言っても一向に差し支えない状態になりました。朝は程良く冷えて美味しくて、指先が果汁で赤く染まるまで完熟した実を探して頂きます。
私達はお客様を接待したり、友人の招待以外では外食はしません。それは私達にとってはとても「贅沢」な事だからです。でも、外食する贅沢や旅行する贅沢、多くの物を持つ贅沢とは縁がなくても、一粒の朝露に冷えた果実を口に出来るのは、何ものにも代え難い「贅沢」だと思っています。「ああ美味しい」「ああ幸せ」「ああ有り難い」と心が満たされます。
今の私は、どんな高級有名レストランへ行くよりも朝の一粒の実を食べる贅沢を選びます。
もうすぐ「黄色すもも」が味わえます。そして収穫はまだ先ですが、プラムも林檎も桃も日に日に大きくなっています。
私の「贅沢な朝食」はもう暫く続きます。













2009年01月19日
「砂漠を美しいと思えない訳」
今でも歌われているかどうか怪しいのですが、私が小学生の頃は「月の砂漠」という歌がありました。
「月の砂漠をはある〜ばると〜・・・」
絵本などではこの歌詞と共に、満月の砂漠を駱駝に乗って旅する王子様とお姫様の挿し絵があって、幻想的な美しさが漂っていました。なだらかに連なる砂丘。人工物の全くない世界。そんな世界に憧れを抱いていました。
福岡正信氏の自然農法に出会い、パタゴニアに暮らし、大地に種を播く暮らしをして、私の考えは随分と変わりました。
今私は「砂漠」を美しい自然だとは全く思えません。緑のない景色、水の流れていない景色、生き物が溢れていない景色は恐ろしい景色だと思います。そしてそれは決して自然の姿ではないと思います。
時々、南米旅行中の旅行者と話す機会があります。殆どの人がペルー、ボリビアから南下してきた人達です。そして先ず間違いなくエルボルソンを「緑の多い町」と気に入ります。
植生の少ない儚(はかな)いこの自然を「緑が多い」と感じるほど、南米大陸の北は乾燥して砂漠化してしまっているようです。
パタゴニアでもアンデス山脈の麓を少し離れると、荒涼とした乾燥地が始まります。焼き物の材料探しやお客様を案内して時々行きますが、胸を締め付けられる様な焦燥感を感じます。ここには木の化石がゴロゴロしています。つまり以前は大木の茂る大森林だった筈です。そんな大昔の事でなくても、地元の70才近い方達が「子供の頃ここは大草原だった。」「この湖は対岸が見えなくて野生のフラメンゴが空を覆い尽くすほどいた。」と思い出話をしてくれるのです。
灌木が生えるだけの雨も降らない土地。でもそれはここ50年の間に人間が作り替えてしまったものなのです。
日本では決して見ることの出来ない砂漠や乾燥地を「美しい自然」と喜ぶ人達。でもそれは「珍しく」ても「美しく」ないのです。
雨の降らない乾燥した空気の恐ろしさは、そこに生き、暮らしてみなければ決して実感する事は出来ないのかもしれません。ほんの数`先では家畜が餓死してしまう程の干魃が始まっており、山の万年雪が小さくなり、大地が干からび、植物が枯れ、自衛の為か昆虫が小さくなっていく過程を見ていると、例えみんなが「緑の多い美しい町」と言ってくれても、素直に喜べません。
「折角楽しんで観光しているんだから、水を差さないでよ!」と煙たがられるのは分かっていますが、私は声を大にして叫びたいのです。
「砂漠は美しくない。自然の姿ではない。」と。