2009年04月18日
「ありがとう」
時々ふっと思い出す40年前のシーンがあります。
近所にできたスーパーの開店の日、子供には風船プレゼントがあると知り、母と一緒に出掛けました。万屋(よろずや)に毛の生えた程度のスーパーでしたが、その当時の田舎町では画期的な事で、既に店内は満員でした。子供達も風船目当てに集まっており、私もその列に並びました。そして私の番が来て風船を受け取ったその瞬間、店長と思われるおじさんが「この町の子供はありがとうと誰も言いやがらん!」と吐き捨てるように言ったのです。
まるで自分一人が叱られた様で、恐ろしくて、それでも風船はしっかり握ったまま急いでその場を離れました。その時は「なんて恐ろしいおじさん・・・。もう二度とここには来ないぞ。」と思ったのです。
私に子供はいませんが、友人や近所の子供達と接する機会はあります。私は子供に自分から声を掛けたり、「いないいないばー」などと相手になったりするタイプでは無く、なるべく子供とは関わりたくないと逃げてしまうタイプです。それでも知り合いの子供の誕生日やクリスマスにはプレゼントをあげる気遣いは持っています。そして多くの場面で40年前のスーパーの思い出が蘇るのです。
私は子供に物を買い与えるのが嫌いなので、プレゼントは自作の焼き物や手作りのお菓子にしています。欲しい物は殆ど手に入れる事が出来る今の子供達には、ありがた迷惑な貧乏くさいプレゼントなのでしょう。でも、そう分かっていても、ニコリともしない子供を見るとガッカリします。
でも、40年前のおじさんの様に「ありがとうも言えないの?」と言う気持ちは有りません。また親が「ありがとう」を子供に強制する事も賛成しません。そうして強制された気持ちの籠もらない「ありがとう」は寂しいだけです。
私も自然に「ありがとう」と言える様になったのはほんの最近です。今では一日に何度も「ありがとう」と声に出しています。それは農場で実った果実を口にした時、猫達がごろごろ喉を鳴らして甘えて来た時、いつでもどんな時でも私の後を付いてくる犬達と歩く時、遠くの友人がわざわざ遊びに来てくれた時、雨が降った時、晴れた時、風が吹いた時、鳥がさえずった時、花が咲いた時、無事遠出から帰った時・・・。
嬉しい時、感動した時、楽しい時に、友人に、犬に、猫に、鳥に、風に、雨に、太陽に、植物に、車に「ありがとう」という言葉を出さずにはいられないのです。
「ありがとう」は強制され、単なる単語として口にする言葉では無いはずです。「ありがとう」と言えないのは、普段の暮らしの中で、心の籠もった本物の「ありがとう」に出会っていないからなのでしょう。
私は長い時間を掛けて優しい「ありがとう」に出会って来ました。そんな多くの「ありがとう」に包まれて来たからこそ、今やっと「ありがとう」と自然に言える様になったのです。
「ありがとう」を子供に強制するよりも、心を込めた優しい楽しい「ありがとう」で子供を包んであげられたらと思います。





2009年04月06日
「種まき」
自然の動植物はとても敏感です。私達人間がとうの昔に失ってしまった「先を感じる勘」を持っています。
地震も津波もその他の自然災害もやって来ることを感じる力を持っています。直接聞いた訳ではありませんから、私が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれませんが。
今年のパタゴニアは林檎やスモモなどの果樹も、クルミや栗などの木の実もたわわに実を付けています。そして自生種の木々も同じように種がびっしり付いています。こんなに沢山の種を付けた木々を今まで見たことはありませんでした。これは自生種だけではなくて、楓やダテカンバや松も同じです。
私は「今年は果樹の収穫が多くて良かったな。」「風に飛んで行く木の種が綺麗だな。」と単純に喜べません。それが豊かな大地の恵とはどうしても思えないからです。
昨年から干魃が特に酷くなっています。もともと夏は雨が少なかったのですが、空気の乾き方が全く違ってきています。アンデスの万年雪も恐ろしい勢いで溶け始めています。我が家から見える「デドゴルド岳」「リオアスール岳」の万年雪が消えました。15年暮らしていて初めてのことです。先日登った「ペリートモレノ岳」も僅かに残った万年雪の下から、岩がごつごつと顔を出し、今にも大岩が転げ落ちて来そうで恐ろしくて近づけませんでした。
こんな風景を間近に見ると、如何に勘が鈍くとろい私でも「何かおかしい。」と感じます。
自生種のシプレスと言う木は、種をびっしり付けたら3年以内に枯れてしまうと言われています。我が家の多くのシプレスの大木に種が付いています。村の周遊道路を走ると、種が付いたシプレスの木で山が緑よりも茶色に見えます。今は種で茶色に見えるのですが、数年後にはその茶色は立ち枯れした木に変わってしまっているかもしれないのです。
自分の命と引き替えに、それでも新しい命を少しでも多く残そうとしているのでしょう。
干魃も災害も大昔から繰り返し起こって来た事だから、今の状況もそんなに心配する事じゃあない。その内良くなると多くの人は言います。
何もしないのなら不安になるよりも楽観した方が幸せかもしれません。でも私はダメです。
自己満足でも良いのです。種を集め、それを粘土に混ぜ粘土団子を作り、乾いた大地に撒こうと思います。それは「地球を緑に」なんていう使命感からではありません。ただただ種を集めることが楽しいからです。粘土団子を作る事が楽しいからです。そしてその粘土団子を播く事が楽しいからです。そして数ヶ月後、数年後、数百年後の緑に覆われた大地を想像するのが楽しいからです。
きっと自然の木々は、自分が枯れてしまうかもしれない悲しい気持ちではなく、新しい命に先を託す楽しい気持ちで種を付けているのだと思います。
風や鳥や昆虫や動物達に混じって、私も種を新しい大地に運ぶ仲間に加わりたいと思います。