「鯉人」の中で印象的な場面は、闕所、追放の申し渡しをうけた後、淀屋の屋敷前で捕縛され、河内・山城・摂津の国境玉造の三国橋まで馬に引きづられながら、途中着物ははだけ、草履は脱げて裸足になりながらも乾いた固い土の道を走って連行される場面である。物見たちは、罵倒するものあれば、同情の目を向けるものもある。新太やロク、吾妻が心配そうに後を追う。炎天下で、墓堀人が石を削る描写は、残酷な護送のおどろおどろしさを一層引き立てる。
こういった場面は(もうお気づきの方もいると思うが、)十字架を背負ったキリストが、ゴルゴダの丘へ向かう場面を想起させる。
皆さんは、ブリューゲルの「十字架を担うキリスト」という絵を見たことがあるだろうか。構図の奥にゴルゴダの丘があり、空は不気味に曇っており、数匹のカラス。その下に何百人もの群集が俯瞰的に描かれ、よく観ると、絵の中心に十字架を背負ったキリストが倒れこんでいる。追い討ちをかけるように十字架を踏みつけているものもあれば、助け起こそうとする人もいる。そんなことはお構いなしに喧嘩をしているものもあれば、楽しそうに遊んでいる人もある。マリアと思しき女が顔面蒼白で座り込み、マグダラのマリアらしき女性が泣き崩れる。イエスの様子を遠くの木の陰でじっと見ている男(それがブリューゲル自身だと言われている)もいる。この木の陰で(表現すること以外)何もできないブリューゲルの姿は、渦中の人ではないが、物語の顛末と辰五郎の心情を感受することしかできない私たち読者自身であるかのようだ。
「鯉人」という作品の核となる「闕所」という重要な場面を、政治的な大事件の迫力と、権力に対する一個人の無力さ、だけに留まることなく、群集の非情さ、愚かさ、主人公を慕い、愛する人間でさえも何もできない無力さ、不条理さ、といった抽象的な概念まで広げて表現されている。
この場面は数ページに満たないが、そんな抽象的イメージが私の心に染みついた。この作品をたくさんの人に読んでほしい、心からそう願う。